「転勤ですか。」

残暑という言葉がようやく使われなくなってきた、秋のある日。
Aさんは自分を納得させるように、上司に聞き返した。

今の支店に来てから5年め。
3年で転勤となるのが慣例の業界。

そろそろかな。
という覚悟はできていた。
 
 
***
 
 
転勤が決まってからのAさんは忙しかった。
仕事はもちろんだが、プライベートも。

Aさんの趣味はマラソンだった。

転勤までの半年。

できるだけ多くの大会に出たい。
できるだけ多くの大会で応援したい。
思い出を沢山残したい。

Aさんはそう考えた。
 
 
***
 
 
思い出。

そんな一言に集約する事など無理だ。
きっとたくさんの気持ちが錯綜するだろう。

Aさん自身もそれは最初から予想できた。

しかし。
Aさんはその片鱗を、誰にも見せる事はなかった。

いつも通りの自然体で振る舞いながら、

多くの人の走りを目に焼き付けた。
多くの人の声援に耳を傾けた。
多くの人と汗を流した。
多くの人と喉を潤した。
 
 
***
 
 
ようやく春らしくなってきた、3月下旬。

Aさんは、転勤前最後の大会に出場した。

Aさんは笑顔で走り出した。
いつものように、さり気なく気を配りながら。

暑かったこの日。
走るにつれて顔は汗で濡れた。

それにしても、汗だけでこんなにも濡れるもんだろうか。
 
 
堰を切って溢れ出す感情。
胸に迫る万感の思い。
 
 
***
 
 
Aさんは、知っているはずだ。

どこに行っても、一緒に笑ってくれる仲間がいることを。
どこに行っても、一緒に泣いてくれる仲間がいることを。
どこに行っても、一緒に走ってくれる仲間がいることを。
 
 
人は、笑顔の数だけ優しくなれる。
人は、涙の数だけ強くなれる。
 
 
だから。
 
 
Aさんは、きっとこれからも走り続けるはずだ。

野に咲く花のように風に吹かれて。
野に咲く花のように人を爽やかにして。
 
野に咲く花のように雨にうたれて。
野に咲く花のように人を和やかにして。
 
家族の事を想い。
仲間の事を想い。
 
ただ。
ただ。
ひたすらに。
 
 
  

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